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【グラスリップ】アニメには珍しい挑戦作【紹介と考察】

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©glasslip project

TVアニメ「グラスリップ」公式サイト

 

 

最初に言っておきますが、『グラスリップ』はアニメには珍しい挑戦をした作品であり、

名作であると断言します。

 

 

初めに

 

「人類には早すぎた作品」

「虚無アニメ」

「意味が分からない」

 

 

グラスリップ』がこのように評価されているのをよく見たことがあると思います。

ニコニコ動画のコメントなんか、事ある毎に小馬鹿にしたような内容が見られました。

ですから正直な所、dアニメストアにこの作品がなければ今後も敬遠していたと思います。

 

ですがいざ見終えたら世の評価に反して

「めちゃくちゃ面白かった」

という感想を抱きました。

それと同時にあのように言われている理由も分かりました。

以下、まずこの作品が「意味が分からない」と言われている理由から説明していくこととします。

 まだ観たことのない方は『意味が分からない理由』の項目だけ観ていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 意味が分からない理由

 結論から言うと、この作品が大半のアニメ視聴者に馴染みのない『不条理劇』のテイストを含んでいるからです。

端的に言えば、意味の分からない要素が放置される形式のことです。

 

 

一般的なアニメで採用されているのはそれとは別の"Well-made"(よくできた)方式です。

これは、

①会話が成立している

②ストーリーに論理性がある

③登場する人物やモノに具体的な意味がある

 

大体この3つが当てはまれば"Well-made"な作品といえます。

「そんなの当然でしょ」とお考えになった通り、アニメに限らず一般的な物語は殆どがこれです。

例えば『プリンセス・プリンシパル』はまさにこれに当てはまり、第1話で暗殺対象に保険金を掛けることを唐突に思いついた理由さえも明確に表現されています。

対象の妹が通院している病院に行くシーンで、通りに保険に関する張り紙がありました

 

対して『不条理劇』的作品ではこの3つのうちのどれか、あるいは全てが真逆になります。

つまり会話が成立していなかったり、ストーリーに上手くつながっていなかったりするわけです。

 

「なんだそれ…何がしたいのか意味が分からない」

と思ったかもしれませんが、まさにその通りなのです。

考えてみれば、案外世の中合理的に理解できるモノよりそうでないモノの方が多いです。

人間理解できないものは怖いですし、避けたり排除したくなるものです。

最近「迷惑系YouTuber」という言葉を度々耳にしますが、あれはまさに理解できないモノの典型ですね。

 

 

本作のテーマが「若いころに抱く漠然とした今や将来への不安と期待」だとすれば、

そんなものに正解はないですし、そこで抱く感情を言語化して他者に表現することはできず、ずっと尾を引く悩みになりますよね。

そんな不条理なテーマに対しても真正面から切り込んでいくのが"Well-made"だとすれば、

同じく不条理的表現でもってアプローチをするのが『不条理劇』であり、本作なのです。

 

何も私が思いつきで既知の概念と本作の内容を結び付けたわけではなく、

第1話から既に鶏の名前にフッサールなどの哲学者の名前を使用していることからも、

本作が哲学的テーマについてか、哲学のように正解のないテーマについての物語であることは明らかだからです。

 

 

不条理劇的物語の楽しみ方

さて今まで長々と『グラスリップ』が他のアニメ作品とは形式が違うことについて書いてきました。

 

不条理劇』的物語の楽しみ方はとにかく作品世界を楽しみつつ登場する要素について考えることで、物語やテーマに対する自分なりの理解を得ることです。

「1話から意味が分からない」のは当然で、最悪観終えても意味が分からないことなんてザラにあります。

ですが曖昧な要素を1つずつ自分なりに解釈していくことで作り手がどのような世界を見てほしいのかが分かるようになります。

 

ここで大切なことは見終えた時に全てがハッキリと分かることはないのだと理解しておくことです。

そうすればガラスのように透き通り屈折したこの物語を最大限楽しめるようになると思います。

 

 

 

駆の分身について

 作中沖倉 駆は視聴者が驚くほど唐突に、かつどれが本物か分からなくなるほどハッキリと3人に分裂します。

これは単なる色彩の都合で特に意味がないのでしょうか?

 

私はこの分身はIFの選択肢であり、本人にもどの選択が正しいのか分からない状態を表しているように思いました。

なぜならは後述する『未来の欠片』という能力が身につくほどに未来に対する漠然とした不安を抱えているからです。

 

しかしの『未来の欠片』は声しか聞こえず不完全。

だからこそ一緒にいると映像と共に完全な未来視が可能になる深水 透子に惹かれていくことになるわけですね。

 

母親が転勤族で共に助け合える友達も作れないが将来に不安を抱いた結果そのような状態に置かれ、そして透子に惹かれていくというのは当然の結果かもしれません。

 

 

 

唐突な当たり前の孤独

 前述の通り、母親が転勤族であるは毎回転勤先で友達を作ることになるわけですが、既にできた輪には容易に入ることができず、地元の祭りがあると必ず独りになってしまいます。

その時に抱く孤独のことをがそう名付けています。

 

結局どういうものか分からなかったかもしれませんが、これは言葉では表現できません。

だからこそ12話丸々使って表現したわけです。

 

12話では前回までの流れを完全に無視して透子と共に未知(IF)の世界に入り込み、が感じた『唐突な当たり前の孤独』を追体験させる作りになっています。

最初観た時は「前話見忘れたかな?」と思いましたが、まさにそんな感覚でもって12話を観ていけば自然に理解できるようになります。

ここはなかなか上手いなと思いました。

 

 

 

未来の欠片について

 序盤、 *映像付きで未来視ができる主人公 透子に興味を持ちます。

 ですが中盤から未来視とも言えない映像を観るようになります。

そしてどうやら透子の母親も青春時代同じ経験をしたものの、時と共に忘れていってしまったようです。

遺伝するものなのでしょうか

 

 

これが一番の謎かもしれませんね。

1つ考えられるモノは『IFの世界を見せるもの』です。

若い頃には大学進学・就職や人間関係等々に色々な選択肢があるのにどれを選べばより良く生きられるのか分からないですよね。

だからこそ未来が見える事を望んだ結果、IF世界のひとつが見えるようになったと考えれば自然です。

 

序盤は確かに見た通りの状況になっていますが、中盤以降は例えばが転落する(かもしれない)世界を観ることになるものの、結局何も起こりません。

更に12話では透子母のピアノ演奏を聴くことで **透子の立場が逆だった場合の世界』を観ることからも『未来の欠片』が『IFの世界を見せるもの』というのも間違いではないように思います。

 

なぜ透子の『未来の欠片』で雪が降るようになったのかについては12話の世界を見ることになる前兆か、あるいはの孤独さを理解し始めたからかもしれません。

高校生の時の冬は友達といてもなんとなく孤独を感じたものです。

後半雪が降り始めたり12話のIF世界が銀世界なったりしたのは孤独の表れなのかもしれませんね。

 

 

*:なぜ透子が映像付きで見られるのかは不明。しいて言うならガラス細工屋YATAGLASS(ヤタガラス)を営む家の子であり、かつガラスはビー玉のように見える世界を少し屈折させて見せることから違う世界、IF世界を見るようになったのやも。

 

**:駆が長年この町にいるはずの世界なのに実家に自室としてのテントがあるのは不明。そして祭りの時に一度あったはずのメンバーとは違う分身が現れるのは恐らく自分は仲良くなったはずなのに祭りになるとまるで知らない人かのように振舞われることを物理的に示している。理想と現実の分化。

 

 

 

止め絵は予算削減や作画崩れ防止のため?

 可能性としてはなくもないですが、

true tears』という同監督の作品でも同じく止め絵(ハーモニー処理)が使われており、この処理を意図的に使用していることが分かります。

 

では何のために多用しているかについては2つ考えられます。

1つ目は場面転換のためです。

特に次のシーンで大きく内容が異なる場合、一度視聴者の意識を引き付けてから次に移ることがあります。

この時にハーモニー処理を使えばそのシーンが終了することが分かりますよね。

ポケモンの終わりにもよくハーモニー処理が使われています

 

 

2つ目は印象的な絵画として描き出すことで、青春の1ページとして刻み付けるためです。

 例えば1話のカフェのシーンでの絵はいつものメンツがカフェに集まるという楽しかった思い出を切り取って強調しているように思います。

なぜならその後の展開を見れば序盤は『みんなといて楽しかった記憶』、中盤は『それぞれが変わっていくその姿』を切り取って際立たせているのは明白だからです。

 

ちなみにそうなるとやなぎの脱衣シーンでのハーモニー処理の多用が謎ですが、これは雪哉との関係などが中途半端になっていた状況からの脱皮を強調して表現したかったのだと考えれば分からなくもないです。

 

この2つのどちらかが正しいというよりかは、場面に合わせて使い分けていると言った方が正しいです。

 

 

 

最後に

P.A. WORKSのオリジナル作品は大体好きですが、だからと言って全部がいい作品だと思っているわけでもありません。

実際の所、自分で観るまでは他の人の考察や反応を見て「P.A.の黒歴史」だとか「駄作」だとかいう評価を真に受けて笑っていましたし、

不条理劇』の面白さを知ることがなければ同じような反応をしていたと思います。

 

 

 今回使用した"Well-made"と『不条理劇』というのは演劇用語ですから、

演劇が好きな人なら『グラスリップ』が他とは趣の違うアニメであると分かったのではないでしょうか。

もちろん会話もストーリーも成り立っているため厳密にいえば"Well-made"なのかもしれませんが、とにかくこんな曖昧さを残すアニメは初めて見ました。

だからこそこの作品は『挑戦作』なのです。

 

 

私自身初めて『不条理劇』を観た時は何が面白いのかさっぱり分からなかったのですし、

なぜこの形式が演劇界隈で市民権を得ているのか理解不能でした。

 

しかし如月小春さんの『ANOTHER』という劇を観てからその良さが分かるようになりました。

この『不条理劇』を楽しむために必要なことは「意味が分かること」ではなく「その意味を考えることを楽しむこと」であると気づいたからです。

 

 

上で紹介した『グラスリップ』の要素の理解はあくまで私個人の考えであって正解ではありません。

『不条理劇』に限らず、作品を読むことは決められた見方で作者の思うままの作品世界を楽しむことではありません。

アニメそれ自体はあくまで物語を読むための装置に過ぎず、それに意味を持たせるのは読み手に他ならないからです。

 

私がたまたま演劇の知識を持っていたからこそ、この作品を演劇的に捉えただけであって、別の知識を持った人ならまた違った見方をするかもしれません。 

例えばNETFLIXオリジナル映画の『バード・ボックス』を見たままにとらえる人もいれば、聖書の知識を持つものならそれになぞらえた物語になっていると考える人もいます。

ですがそれはあくまでデモンストレーションの一つであって、どれが正しいというわけではありませんが、

サッパリとしつつも言いようのない感覚について追体験を交えつつ様々に考えさせてくれる『グラスリップ』は、その意味で名作と言うに相違ない作品です。

 

万人受けはしないかもしれませんが、改めてみてみるときっとまた違った見方で楽しめることと思います。

ぜひともその世界や考えることを楽しんでみてください!

 

 

 

ちなみに「透子役の人の演技が下手だ」と言っている人もいましたが、

むしろこの作品の主人公が他のキャラと同様にキレイな演技をしていたら彼女の曖昧さを表現することができません。

透子がその曖昧さを持っていなかったとしたら、『未来の欠片』という能力を持つこともなかったでしょうから。

 

 

 

 

[おまけ]言葉遊び

 余談に言葉遊びをします。

 

まずタイトルの『グラスリップ』は"glass lip"のことでグラスの飲み口を表します。

この作品の時期は学生時代の夏休み、やはりイメージするのはラムネのボトルです。

ラムネを飲んだことのある人なら飲み口から望遠鏡のように周りを覗いたことがあるのではないでしょうか?

 

瓶の底から世界を覗くとゆがんだ世界が見えますよね。

もしかするとラムネの炭酸がはじけるような爽やかさとゆがんだ別世界、IFの世界を合わせて表現したタイトルなのかもしれませんね。

 

 

もう1つは透子らいつものメンツが集っていたカフェ『カゼミチ』についてです。

これは”風の通り道”のことであり、そこに停滞していた皆を"駆"が文字通り追い立てることで成長を後押ししていくことを暗に示しているのかもしれませんね。