【超余裕】異世界や異能モノの評価がやたら厳しい件【超人高校生たちは異世界でも余裕で生き抜くようです!】
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初めに
遅ればせながら『超人高校生たちは異世界でも余裕で生き抜くようです!』、通称『超余裕』を観ました。
実は放送期間中はいわゆるラノベアニメ、ひいてはアニメ自体に食傷気味で、本作も第一話の口移しのシーンで切ってしまっていたんですよね…
ですが今は長期休暇中で時間的にも精神的にも"超余裕"があるので、
これを機に観てみることにしました。
超余裕の評価
普通に面白かったです。
最近ラノベアニメに対する評価がやたらと厳しいため、本作もまぁ例にもれず貶したい人が多く、
またラノベ原作は悪い言い方をすれば低予算で雑に大量生産される印象があるため、
内心「あまり面白くなかったのかなぁ」と思っていましたが、
作画、演技、演出全て◎でラノベ原作としてもかなり恵まれたアニメ化だったと思います。
ただ言ってしまえば「普通」であって、
同じ原作者の『落第騎士の英雄譚』のアニメのように、数年経った後も語られるような作品ではないんですよね。
これがこの作品にいちゃもんをつける人に付け入られる隙になってしまっています。
問題点
アニメ化の要素としては充分すぎるくらいなのに、これだけ評価が分かれてしまったのはそもそものお話の性質が問題なのでしょうね。
ここでいう性質とは、
❶話のテーマ
❷心情描写
❸矛盾点
この3つのことです。
❶話のテーマ
まず一つにこの作品のテーマが『政治』と『超人』である点です。
7人いる『超人高校生』の一人で、主人公である御子神司が政治家だからです。
その『政治』とは酷く現実的なもので、かつ正解は存在せず「最善と思われるモノ」しかないものですよね。
最近トマス・モアの『ユートピア』を読みましたが、大雑把に言えば、ユートピアという理想的な国家の話です。
国家制度としては、平等を至上とする社会主義の極限値、かつ例えば徹底的な思想教育(例えば金を無価値なものとするなど)を施すというものです。
確かに"理想郷"にはなるかもしれませんが、これでは自由に幸福を選ぶ権利はありません。
それで良いのでしょうか?
ちなみに幸福についても『ユートピア』の作中で説明されており、割と抜け目ないです。
このように、最善手だと確実に言えるモノがなく、かつ現実的な政治は非現実的な能力を持った他の『超人』と相性が悪く、視聴者の立場が不安定になってしまう原因になります。
視聴者は基本的には主人公に寄り添った視点でモノを見ることになります。
一方で、本作は終始自分とはかけ離れた『超人』を通して作品を見ることになり、また特に主人公のとった政治的行動は間接的に自分のとった行動になってしまいます。
御子神司は基本的には何でも先回りして解決することができるため、おおよその視聴者とは違う存在でしょう。
この時点で『視聴者が超人になりきる』という状況になります。
その上、例えば第12話のように、相手の武力への対抗策が結局現実でも採用される核であるなど『超人』にもなりきれていない点が見ていて少し辛くなります。
間接的に視聴者が『超人』になるのですから、主人公には超人的な策でもって問題解決にあたってくれた方が気分もいいですよね。
作中主人公自身も「自分は『超人』ではない」と苦悩する場面がありますが、やはり見る側としての希望は『超人』らしく、
現実で既に下されているつまらない決断ではなく、他の誰も思いつかない策で対処して欲しくなるものでしょう。
これでは最初から『超人』で自分たちとはかけ離れた存在だと認識させられているのにも関わらず、結局やることは他の人でも出来そうなことであるため、
非常に感情移入しづらくなっています。
作品の見方が分からなります。
キャラの感情を理解する必要のないゆるい作品なら何も考える必要がないのですが、テーマの一つが政治であるために視聴者は考えざるを得ないです。
なのにその先で感情があまり見えないのでは辛くなって当然です。
さて、感情移入するには、そのキャラクター自体を見るという別のルートもあります。
しかしこれにも問題があります。
❷心情描写
原作では恐らく地の文で描写されていると思いますが、アニメではあまり心情が読み取れないです。
正確には、悔しい、好きだ、愛しいのような感情表現はあっても、これだけではそのキャラクターが見えてこないです。
何と言うか、酷い話、このお話の舞台装置のように思えてしまうんですよね。
特にその傾向があるのが大星林檎を始めとした超人高校生たちです。
アニメでは正直な所、猿飛忍と真田勝人以外は主人公の修飾語の一つのように思えてしまいました。
ただ主人公に言われれば望みの行動を取る、これでは他作品における魔法と相違ないです。
自分たちとは違う『超人』的な知性を持つものも集まっているのなら、主人公の御子神司の決定に反論するくらいはしてもおかしくはないです。
にも関わらずそのキャラ独自の行動に出るものは少ないです。
心情が読める行動もなく、また地の文解説もないので個性もない。
結果キャラが薄っぺらく感じてしまう点が残念です。
❸矛盾点
演出的意図が見えてしまうと作品としての良さが薄れてしまいます。
演出の都合で矛盾が生まれてしまえばそれだけ残念な出来になりますね。
例えば第12話のギュスターヴ公が核攻撃を受けても傷一つつかなかったのに、(超人的ではあれ、)日本刀の斬撃と銃撃でダメージを与えられるのがどうもおかしいです。
核攻撃にも耐えるのならば銃撃なんて豆鉄砲並のはずなのにギュスターヴ公を怯ませることができ、なおかつ胸の宝石を打ち砕くことが出来るのはどうなのでしょうか。
勿論ボディの耐久値は∞でしょうけど、宝石は有限で、核攻撃によって大幅に減らされてからとどめを刺されたと考えるのが妥当です。
ですがなんとも締まりが悪いです。
普通は弱い攻撃から強い攻撃で終わるため、
『ギュスターヴ公を間近で倒し、主人公の真意を見抜かれる』という下りを意図的に作りたかったという、演出的意図が透けて見えて勿体ない気がしますね。
核攻撃の汚点の一つに、見えない相手を知らず抹殺してしまうというものがあります。
相見えてもいないギュスターヴ公をそのまま殺してしまうという事態を避けたかったのでしょうか。
まとめ
まぁそもそも作者以上の天才を書くのは不可能なので仕方ない所もありますね。
敵の武力への対抗策で、『同等以上の武力を有すること』以上に有効な策が思いつくのであれば、
もうそれは間違いなくノーベル平和賞ものですからね。
ですから純粋に若者が異世界でのやり繰りをする姿を楽しむものだと思って見れば楽しめると思います!
最後に
振り返ると、
2015年のいわゆる『ラノベ四天王』以降、異世界や異能モノを小馬鹿にする傾向が強くなり、
2017年の『異世界はスマートフォンとともに。』で更に強くなっていきましたね。
まぁ確かにあれは「なろうRTA」と言われるほど見たことのある展開やとんでも展開のオンパレードで酷かったです。
それ以前はつまらなければ見ない、あるいは少数のマニアとファンが見てささやかに楽しんでいたはずなのに、
今ではもっぱらバカにするのが目的で見ている人が多いくらいです。
私もネタにするつもりで見ることもありますが、時間がもったいないので合わなければ途中で切るし、わざわざファンの集いに出向いて否定的(批判的ではない)コメントをしていくような事はしないですね。
楽しめれば何でも結構!ただし他人を害さない限りにおいて。
これに尽きます。